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12月, 2020の投稿を表示しています

TK's room: Message 08「シオンの義が朝日の輝きのようにあらわれいで、・・・」

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みなさんこんにちは。TKです。明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。 「シオンの義が朝日の輝きのようにあらわれいで、エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、わたしはシオンのために黙せず、エルサレムのために休まない」は、『聖書』「イザヤ書」第62章に書かれています。朝日、素晴らしいではないですか。日本の国旗、日の丸にぴったりで、この聖句を読むたびに、TKは、日本にはキリスト教徒の数は少ないけれども、日本はキリスト教にとても近いところにある国だと思ってしまいます。

TK's room: Message 07「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」

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みなさんこんにちは。TKです。クリスマスおめでとうございます。日本でのキリスト教徒は統計上はほんのわずかです。それでも、12月になると町中クリスマスの飾りつけで美しく、お店に入れば賛美歌も含めてクリスマスの曲が流れています。キリスト教徒にとっては、なんと感謝なことでしょうか。実際、日本人の道徳律は『聖書』の道徳律と矛盾することはなく、お互いに譲り合い、お互いに贈り合う文化は、キリスト教徒よりもキリスト教徒らしさを感じさせます。異なるのは、イエス・キリストを救い主として告白している人(告白すると晴れてキリスト教徒となる)が日本には少ないという点でしょう。日本人は宗教に無頓着と言われます。それでも、困ったときには、思わず、お願い!と叫んでしまいます。例えば、急いでいるのにプリンタの調子が悪く、なかなか会議資料が印刷できなくて、でも会議開始時間が迫っていて・・・ああどうしよう!というような場合です。でも、誰に向かってお願いしているのでしょうか。プリンタに対してでしょうか。知らず知らずのうちに神様にお願いしているのではないでしょうか。他にも、神様にぐっと近づく例があります。こちらは、別稿でお話します。

TK's room: Message 06 「まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった」

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みなさんこんにちは。TKです。クリスマスが近づいています。クリスマスでよく読まれるのは「マタイによる福音書」第1章の、マリヤが聖霊により身重になったところ、同じく第2章の、東から来た博士たちの訪問の様子、「ルカによる福音書」第2章の、ベツレヘムでのイエス・キリストの誕生の情景、などでしょう。クリスマス前には「ルカによる福音書」第1章の、エリザベツ(マリヤの親戚)の妊娠についてのエピソードも朗読されます。近代になり科学の進歩と共に、男女の交わりなく身重になるなどありえない!だから、キリスト教はおとぎ話、などと言われるようになりました。ところが、今や科学技術の更なる進歩により、必ずしも男女の交わりがなくても身ごもることは可能となっています。ただし、聖霊によってではありませんが・・・。いずれにせよ、人間の技術でさえ可能なのであれば、ましてや全知全能の神によってなら、男女の交わりなく女性が身ごもることも可能ではないか・・・と言えるのではないでしょうか。もちろん、そのためには、全知全能の神が存在することを前提としなければなりませんが。霊的次元を認めないのが現代ですが、ふとしたきっかけでその次元が見えることがあります。詳しくは後日ブログに書いていきたいと思います。

TK's room: Message 05 「あなたは殺してはならない」

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みなさんこんにちは。TKです。『聖書』には、〇〇しなければならない、あるいは、△△してはならない、という規則がたくさんあります。有名なのは、十戒と呼ばれるものでしょう。十戒は「出エジプト記」第20章に書かれています(「申命記」第5章にもあります)。キリスト教徒になるとなんだか大変そうです。殺人や窃盗の禁止は当然としても、え、なんで?という規則もあります。これでは自由がなくなりそうです・・・。しかしながらここで重要なのは、規則に縛られると自由度が減る、という考え方を捨て去り、規則があるからかえって自由に振舞える、という事実に気づくことです。それはありえないさ!という方にとっても納得していただきやすい比喩は現代の交通規則でしょう。例えば、特に忙しい朝に赤信号で止まる時など、赤信号さえなければ・・・と思ってしまいがちです。しかしながら、もし赤信号が全くなくて、運転手が勝手気ままに自動車を動かしたらどうでしょう。自動車数が多い都会なら大混乱となり、遅刻どころか目的地に到着することすら難しいでしょう。他の運転手が規則に従い赤信号で止まってくれるから、こちらは青信号で進めるし、またその逆も然りなのです。『聖書』の律法は人を窒息させるものではなく、それを守ることにより人が生きるためのものです。もちろん、何千年も前に書かれたのですから、そのまま21世紀の生活に当てはめることは難しいでしょう。それでも、律法のそもそもの意義を再確認することは、キリスト教帰依の第一歩になると思います。

TK's room: Message 04 「わたしのくびき」

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みなさんこんにちは。TKです。『聖書』は旧約聖書と新約聖書とに分かれ、新約聖書冒頭には、四つの福音書が収録されています。最初のものはマタイによる福音書で、第11章28節には「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」とあります。あなた、とはイエス・キリストです。わかりやすい・・・ですね!イエス・キリストのもとに行けば、安らぎが訪れるのです。しかしながら続く29節には「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」とあります。くびき!あれ、お休みできるのではなかったのでしょうか。28節はとても有名で、栞に印刷されたりしますが、29節が栞の聖句になっているのをTKは見たことがありません・・・。キリスト教の信者となれば、安らぎと自由が得られるのか、それとも規律とくびきが待っているのか・・・。答えは両方で、規律を守り、(イエス・キリストの)くびきを負えば、安らぎと自由が得られるのだ、と気づくのに時間がかかりました。この気づきが、無神論者TKをしてキリスト者へと歩ませしめた一つの要因です。もう一つは、やはり神的領域というものがあるのではないか、とふと思ったことです。これについてはあらためて別稿でお話しします。